他のためにー愛は循環

いつもブログ読んでくださりありがとうございます。
先日のウエサク満月のアクシスアライメントはとても楽しかったです。
プチリーディングしたり、ちょっとテイストが違ってまさに「祝賀」でした。

みなさんが私の世界にいること。

これは本当に奇跡の出会いです!

他(た)のために

誰もが他のために生きている

他のためにしているとき、それは歓びだ

この「歓び」は「わーい!」と手を叩いて喜ぶこととは違う。
内なる平安・満足・安堵・安心?

というよりも 平常心 かな?

だから気づかない。
感じているか、感じていないかもわからない。

 

私は人や環境の手助けをすることが好きなんだと思う。

家族、親戚、近所、友人、知人、見ず知らずの人、自然環境、動植物・・・
私を取り巻く世界に現れるモノ、他の手助けをすることが昔から好きなようだ。

好きというか、そういうことになってしまう。

 

・高校生の時、友人が定期券を買うのを待っている時、デパートのエスカレーターの踊り場でてんかん発作で倒れた人がいて、口をこじ開け持っていたタオルを突っ込み(舌をかまないように)駅員を呼びに走った。
(倒れた人を跨いでエスカレーターに乗る人もたくさんいた!)

・痴漢が出たと言えば呼ばれ痴漢退治に行った。

・29歳の時、仕事から帰りテニスナイタースクールに行った後カラオケに行き、夜中過ぎに帰宅したら従弟が亡くなったとの知らせ。そのままと寝ずに早朝、動転している叔母たちに付き添い仙台まで新幹線で行き、小さな子と乳飲み子親子を乗せて仙台から従弟の車で彼の実家まで帰ってきた。会社は休んだ。

・叔父叔母がケガした、動けないという時には行き、病院・治療院等に連れて行き、自分でも手当てを施した。

・知人がケガをした時、持っているもので手当てをした。

・目の前に倒壊した車庫を一人でかたずけている人がいたから手伝った。

・畑仕事していて、近所のおじさんが植木を運ぶの手伝てくれと言われれば手伝った。

・友人が家の作業を手伝ってくれと言われれば遠くても行く。

・電車の遮断機にトラックが引っ掛かり立ち往生している時、遮断機を持ち上げトラックをバックさせる手伝いをした。

・体調が悪いと言われれば効果であろうと思われる医者や物を紹介する。
自然環境に問題があれば役立つかもしれない知識と情報を教える。

・「人が足りないから」と言われれば行き、できることをする。

などなど、そんなことばかりをしてきた。

 

他のために?

いえ、これらのことはみんな「誰かのためにやろう」なんて考えて動いたわけではない。
何も考えず、見返りを求めず、ただ身体が動いた。

感謝してほしいとか、立派な人と思われたいとか、そんな思いが入る余地がない。
それが自分の仕事を休むことになろうとも、一銭の報酬にもならなくても、

考える前にその時に身体が動くことをした。

 

大きなお世話かもしれない。
後から「こんな疲れる事、何でやっちゃったんだろう?」と思うこともある。
でもその時、そのように動いたのだ。

 

「その時、そのように動いたこと」
思考を入れず「考えや思うことなくやってること」は
他のためになる

 

もしかするとあなたは自分の小さな考えの中で
「私は何もできない」「他のために何もできない」
と思っているかもしれないけれど

誰もが他のために大きなことをしている

日々の何気ない行動だから気づいていないだけ。

 

家族の食事、掃除、洗濯などをするとか、
ペットの世話をするとか、
親・子・妻・夫・上司・部下に話しかけられたら応えるとか、
おしゃべりの相手になっているとか、
気になった誰かに電話するとか、
下ネタに付き合って笑うとか、
好きなこと、知ってることをしゃべってるとか、
こんな風に思ったことを書いたり、言ったりするとか、
気になった道に落ちているゴミを拾うとか、
転びそうになった人に「危ない!」と声をかけたり手を差し伸べてるとか、
スーパーの店員に、お客様に「どーもー」なんて気楽に声をかけてしまうとか

あなたも何気なくやっているでしょ?

「こんなこと?」
なんてバカにすることじゃない!!
これらはとんでもなく大きな愛の行為です!

 

愛は循環

「他のためにする」誰もがそれをすることが歓びだ

誰もがそうだ。
そうでない人はいない。
たとえどんなに根性がねじ曲がったヤツと言われる者であろうと、心底にあるのは同じ。
ただその人は素直じゃないだけ。素直になれないだけ。

 

なぜなら

この世界のすべては私だから
「他のためにすること」
それは自分のためなのだ

私(自己)の世界に現れるモノ(他己)のため
それはすべて己(私)

だから「歓び」になるなのだ!

 

報われるためにするのではない
ついやってしまう、そうしてしまうこと
それが無条件の愛

 

もちろん、自分のためにでもいいんだよ。

勉強するとか、仕事をするとか、セミナー・講座に参加する、セッション受けるとか、欲しいものを買うとか、食べるとか、旅行に行くとか、
自分のためだと思っていることでさえ他のためになっている。

先生のため、参加者のため、友人のため、お店のため、etc.・・・
関わった人、その家族、その環境の生の活動のためになっている。

「あ、やりたいな」と軽く感じたことは何でも

 

愛はそうやって循環してる

何気なくやること
そう感じたから
そう身体が動いたことはみんな
愛の循環になる

 

「他のため」というのは「誰かのために何かをしよう」などと意気込んだり、努力をしたりする必要はない。

「お金を稼ごう」「集客しよう」「喜びを与えよう」「世のため、人のためにしよう」「育てよう」とか、世間で言う立派な目的や意図を持ってすることも愛の循環だけど、
こちらは注意書き付き。

むしろ意気込んだり、意図をもって行うこと、努力をしたり、何かをしようとすること
期待や承認目的へとすり替わることがある。

そしてそれ故に、落胆、挫折をし、「歓び」と離れてしまう。

思考が先で、正しさを求めてやる行いは時に虚しさを生む

先に結果を想定した一方的な「○○のため」ならやらない方がいい。

 

与えるばかりでも、受け取るばかりでも愛の流れは滞る。

滞りは虚しさと傲慢さを生む。

 

あなたも自分の行動をよくみて、
自分でやってみたらわかるよ。

 

そしてね、

見返りを求めない無条件の愛の循環はね、
それに関わった人や事柄から直接お返しが来なくても、
とんでもないところからお返しがやってくる。

それが宇宙の愛の真理