公私の区切りって?【メルマガより】
ふと目に停まったSNSニュース。
見てたら勝手に手が動き出したので書いてます。
公私の区切りって?
秋篠宮様のコメントで、真子さんが
「公より私を優先させた」と言われているらしいことを知った。
公私ってどこで区切るの?
真子さんという方がいることで既に公のことを行っているのではないかしら?
その環境に生まれたことで十分公のことをやっているでしょう。
結婚するのだって親兄弟だけでない人が口出しするんだから。
そもそも公私混同するとはどういうことかしら?
誰も存在しているだけで、公私同時に現れてる。
だれもが公私混同している・・・のではないかしら?
私の場合、公私はまったく区切れない。
生きる活動すべてが仕事に結びつく。
というか、それ自体が仕事です。
生命の響きであること。
「収入を得る活動」として、表面的に現れる響きの表現、伝達が
セッション、セミナー、演奏など。
表面化するのに日々の活動/生の活動(生活)、例えばバレエのレッスン、発表会、畑仕事、友人・家族との関係、付き合い、坐禅などあらゆることが調和の響きに必須な事柄です。
生き方そのもの、在り方そのものが仕事。
表面的に現れる表現は氷山の一角。
コロナ禍で表面的な収入を得る活動はできないとしても、それを支える仕事(内面的な活動)は絶えず行っている。
磨いて、ずっと大きなエネルギーとなっている。
しばらく写真の整理をしているのだけど、かつての仕事・遊び、数々の経験も響きを磨いてる。
もしそれがなかったらメルマガもブログも書けないし、セッションやセミナー、演奏も薄っぺらいモノになってしまう。
元々クライアントとセラピストという立場の区切りもわからない。
セッションをしている時はその関係だが、それを終えたら人と人でしょ。
開業当初からそう言っているので、仲良くしているクライアントさんはそのことを知ってる。
人との関係に上下や区別があることが私にはわからないの。
それが私という形であり、私という形から響く神聖の流れ。
分け隔てのないコミュニケーションが意識せずに経験からも培われてきた。
区別がないこと、それも善し悪しではある。
普通に話をしてるだけでセッションしているときのように気づきが起こっているようで、セッションとさほど変わらないようなのに、この時は収入にはならない。
だから区切りを付けることも必要なんだけどね。
「カラクリおはなしクラブ」なんかを設けてみたのも「セッション」とかしこまらなくても普通の話しで伝え、響くことがあるから始めた。
(ずっと開催していないので、やりまーす。冬至あたりに・・・)
本当のところ、
あらゆることで区切りなんてつけられない、
というか、区切りなんてない!
”神性(真性)”は区分、区別できないもの。
レイエッセンスで「明界」というエッセンスがある。
プロデューサーの富井さんがそのエッセンスを作った場所は東京都と神奈川県の境。
表示に書いてある。
だからそこが境界。
じゃ、空気は?
どこで区切るの?
風が東京側から入ってきたら?
私は東京の空気を吸っている、と言うのかな?
土地のどこに線がある?
境界は人間が勝手につくったもの
自然宇宙には境界なんてないのさ!!
「公的なわたし」と「私的なわたし」
仮面を付け替えて生きるなんて、
そんなくたびれることはできないのさー
かるく楽に生きるなら、自然宇宙に同化して
ハーモニー&ユニティ ホーリズムで生きましょう
なぜ人間は境界を作ったのだろうね?
それを考えてみたらいいと思うよ ( ´艸`)
きっと自由への大きな気づきがある。
社会では仮面も必要な時もあるよね。
私も時々いい子ぶったり、賢そうぶったりして話したりすることもある。
それは仮面を付けて遊んでる。
仮装を楽しんでいるのです。
他にもたくさん仮装している写真が出てきたよ。
飛び切りの変身姿はまたそのうちに・・・
皆さんも、仮面をつけている自分に気づきながら、
公私使い分ける自分、公私などない自分を遊んでみてくださいな。